なっちゃんは、3200g、色白のぱっちり二重で満月の夜に生まれた。
奈月とは、中国語でも名月という意味もありひっそりと美しい女性になるようにと私がつけた名前だ。

生後3週間目の検診時、ビタミンKの投与を医者が忘れ
脳室内出血をし、産科の医師が紹介してくれた先生は
ただの風邪と誤診。「神経質な母親とも言われた」
納得できず翌日、総合病院で脳出血が発覚。
そこでも治療困難のため大学病院へ移送。
すでに植物状態で、後天性水頭症及び硬膜下水腫も発病。
脳の萎縮が著しく、脳室内は通常の人より3分の1は細胞が死んでいる。
 
付き添った救急車で、覚えているのは保育器に入ってけいれん発作がおさまらない子供と
救急隊員の方に「なつきはどういう漢字ですか?」と聞かれ
「奈良の奈に・・・お月様の月です・・・・」
生まれるまでのついこの間までお腹にいたしあわせな日々を
遠い思い出のように考えていた。
救急車って案外遅いんだな・・・3日間寝ていなかったことも忘れてた。
 
まず私は人間ができていない。
植物状態になった奈月を見て、せめて命だけは・・・などと思わなかった。どんな障害が残るのだろう・・・
そんなことになるくらいなら、むしろこのまま死んだ方がいいのではないかと
思ったひどい人間だ。意識が戻ってからも保育器の中はカエルの標本のようで、穴という穴に管が入っている。
毎日の髄液検査は、赤ん坊と思えないほどの絶叫だった。
その髄液の色は、通常無色透明だが、奈月の髄液は真っ赤だった。その検査を2ヶ月間毎日やった。
私は、その絶叫を今でも忘れない。
 
母乳は搾乳して冷凍し持ってくるように言われた。他の赤ん坊はそれを解凍しほ乳瓶で飲ませるのだ。
保育器の奈月は意識がほとんどない。解凍した母乳は鼻の管から入れる。
母乳はすぐに出なくなってしまった。
 
自分の体重も奈月の発病から20kg減った。
洋服をはじめ、靴のサイズ、下着のサイズ、すべて変わってしまった。
買う気にもなれずまだマタニティで靴は真冬にサンダルを履いていた。友人が見かねて靴をプレゼントしてくれた。
ある日、手を下にしたら結婚指輪がスルッと抜け落ちた。
それから私たち夫婦は結婚指輪はしていない。
その時のことを思い出し胸が痛くなるからだ。
本人よりも看護婦さんが会うたびに食べて下さいね、と私に言っていた。
今となっては意味が分かるのだが、その当時は何でそんなことを言うのかわからなかった。
完全に思考能力が低下し、奈月のことしか考えられなかった。
保育器から出て、抱っこが出来たとき、最初にしたことは、入院病棟の7階から下を見たことである。
いつ飛び降りようか・・・そればかり考えていた。
 
人は「母親なのだからガンバレ」という。
その言葉をほど残酷なものはなかった。
え?!お前なら頑張れるか?
そんなことを考え、このくそったれ!と全てに怒りと憎しみを持った。
 
よく神様は、乗り越えられない壁は与えないとか
障害児を育てられる人だから選ばれた母親なのよとか気持ちを楽にさせる言葉なんだろうが、
根性の曲がっている私は
もともと神様なんていねーよっていうへそ曲がりなので
現在に至る途中まで、不公平だという自分の人生を憎み
医療ミスをした医者を憎み、向かい風を突っ張って歩いてきた。
 
病院では一年弱、何度も脳外科手術をし幾度か生死をさまよい、
そこで首がすわり、寝返りをし
お座りを覚えた。
その頃に使用された人工硬膜は、今で言うヤコブ病の原因である。汚染された人工硬膜だ。
一番発症している年度にも、手術をしていた。
厚生省に問い合わせてみても、今も何の返事も無い。
潜伏期間が長いこのヤコブ病は、発症したら必ず死ぬ。
その頃に使用した血清剤もエイズの汚染法をまだ実行していないときであった。
これには厚生省が追跡調査をしてくれて、エイズでもキャリアを持っていないことも判明した。

両手挙げて喜ぶ気持ちなどなれなかった。
うちは何でもなくても、他の大病で治すために病院に行き、更に治らない病気を貰うのである。
理不尽極まりないことで、早くわかっていて対処しなかった関係者にほんの少しでもこの痛みがわかるのであろうか。
 
奈月の知的障害がわかると、同じ年代の子供達だけでなく、楽しそうに洋服を選ぶ母と娘。
友達同士しゃべっている高校生。若いカップル。仕事に向かうOL。
すべてが地獄絵図にしか見えなかった。
この先、結婚も孫を抱くことも嬉しそうに彼氏を紹介することも何一つ無いのだ。
バスの窓、そんな景色を人目も気にせず、景色と共に涙も流れていった。
 
私は、妊娠中、たばこもお酒もコーヒーも飲まなかった。
信号無視もゴミのポイ捨てもお腹の子にバチが当たると悪いことは何一つしていない。
私は真面目に生きてきた!
どうして私の子供にこんな不幸が襲うのか、
世の中、もっと悪い事しているヤツがいるじゃないか!!
なぜ?どうして?怒りと憎しみで子供の頃遊んだ神社に長いこと立たずんでいたこともある。

隣の芝生は青く見えるのではなく、青いのだ!
奈月の障害を受け入れるまでの自分の中の葛藤は自分の人生の中で一番辛い日々だった。
特に自閉症児の親は、感覚異常・こだわり・パニック・特異行動で長い苦労が余儀なくされている。
奈月はそれプラス睡眠障害も持っていた。
奈月は生まれてから、子供の寝る時間・・・いわゆる8時、9時に寝たことはない。
もちろん、私もまとめて寝たことはない。
なっちゃんのこだわりの質問応答も私でなければならない。
同じ質問の繰り返しで心の安定を図ろうとしているのだ。
応答者は私でなければいけない。
それは、母として甘えているのではなく、一般に言う母親の愛情という感覚は奈月にはない。
母親とは、自分の要求を満たす道具なのだ。悲しいけれどこれが自閉症である。
 
私の好きな映画に、黒澤監督の「生きる」という映画がある。
モノクロで暗い映画なのだが、生きるとはどういうことか深く考えさせられる素晴らしい作品だ。
私は、何度も言うが人間ができていない。
生きるとは、まだわからずオタオタジタバタするしきっと死ぬまでわからないかもしれない。

でも「今を生きる」なっちゃんと、共に生きるって何かを考えながら
やっぱり根性曲がりながらも生きるんだろうな・・・
幸せか不幸かと聞かれれば、悔しいけど思い切り不幸だと私は思う。
もちろんそういう子を授かって、自分が大きく成長し人の痛みがよくわかったし、
そこに自分の出来ることを実行する勇気も持てた。
心が優しく豊かになったのも事実だから、ただ不幸だと言いたくないけれど
人間のできていない私は、やっぱり不公平だと思っている。
 
ある時、ニュースで心不全で亡くなった老婆の近くで餓死している自閉症が
発見されたことがある。冷蔵庫には、十分食材は入っていた。
 
90過ぎの老婆が60いくつの子供を殺し死にきれず自首をした。
子供は重度の自閉症だった。
自分が逝ったあとを案じての行動だった。その老いた母を誰が責められるだろうか・・・
彼女の60何年間は、一体どんなものだったのか。涙が止まらなかった。
どの障害だったら60年間良かったなどと口が裂けても言いたくない。
私には自閉症を育てる苦しさしかわからないからだ。
だからこそ、その1人の老婆の人生をどんなにか大変だったか
想像を絶する長い長い人生だったと思う。
それでも子殺しとして処罰を受けなければいけない。
頭でわかっていても、心が叫ぶ。・・・許してあげて。お願い。許してあげて。
私は、胸が詰まって、やはり神の存在などあるもんか・・・そんな気持ちだった。
 
ひとつだけ分かったことは、涙が枯れることもないが
子供に対しての愛情が枯れることもない。
その気持ちだけは、根性が曲がっていても、なぜか清く透明で力強い。
電車の中でジロジロ見られても(なんか文句あんのかよっ!)と見返すと大人は皆目をそらす。
その点、子供は純粋だ「おねえちゃん、どうしたの?」と聞いてくる。
「お姉ちゃんは、病気なんだけど、ちょっとびっくりしちゃったの。大丈夫だよって言ってくれる?」と言うと
心清らかな純粋さそのものだ。どこの年齢からそれが汚染されるのか?

隣の芝生は青い。でも青いから幸せとは限らない。
そう気付かせてくれたのはなっちゃんであり、そう思えたことが
私を大きく成長させて、向かい風でも歩いていく強さを与えてくれた。

今だってえらそうに言っても先々の不安で、いっそ死んでしまおうかと思うときもある。
でもババアは強いっっ!!このまま死んでたまるかコノヤロー!!
生き抜いてやる。こーなったら開き直って最後までこの不平等の人生を生き抜いてやる。
夢だの、希望だの、そんなチャラチャラした言葉に無関係な生き様だけど
途中下車したら私の負け、最後まで人生全うしたら、天国なんてあるかどうかわからんが
ゆっくり休ませて欲しい・・・・そして、なっちゃんと会話が出来るようにさせて欲しい。
どんなに手術が痛かったか、どんなに怖かったか、抱きしめてひとつひとつ話を聞いてあげたい。

 
私はある写真が好きで、自分の20歳の若かりし夢を持ち
アメリカに短期留学した頃の写真である。
獣医大学・盲導犬訓練所・ドッグショーなどついてまわり
大好きな動物の世界で働くことを夢見て、
チーズとフランスパンをかじって貧乏生活の勉強に必死だった頃だ。
すっぴんで汚い格好で真っ黒でよくカンボジア人に間違われた(笑)
でも、なぜかこのくったくのない笑顔で写っている写真が好きで
いつも持ち歩いている。化粧っけもなく、かけもちの仕事に学校。
アルバイトに追われ、夢だけはでっかく、いつもお腹空いてたけど
一番いい顔・・・その幸せに気づいていない何事も全力疾走したあの頃。
この純粋で一生懸命だった頃のアタシ。真面目に夢だけを追っていた私。
生きることは何だ・・などと深く考えもしなかった20歳の私。





 
 


私はこの数年後に障害児の母となった。



娘、奈月との歩み

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