KAZUの戯言                
 前にも紹介したが、私は幼い頃とても大人しい子供だった。活発にはほど遠くいつも借りてきた猫みたいに
   静かだと言われていた。しかし、子供のときから観察力や心の中で感想を文章にしていることが多く
   本当は好奇心で満ち溢れた子供だったのだ。
   しかも典型的な内弁慶で兄に対しては、取っ組み合いの大喧嘩は日常茶飯事で、だいたいの原因はテレビ番組、
   もしくはおかずの取り合い(笑)喧嘩の最後は、決まって「ばか」「ばか、ばか」「ばか、ばか、ばか」と
   最後に言いたくてまた第2ラウンドが始まることがある。
   
   大人しい私も、なぜか兄とは気が合わずA型の兄はとても神経質で細かく、長男ということで優遇されていた。
   そしてすごく私と違い頭が良かった。いつも学年で3位以内で成績優秀だ。
   プライドの高い兄は、このくそ生意気な妹が普通の理屈で言い負かされないことを悔しがっていたのである。
   兄が「なんだよ〜!」と怒ると、へへら笑って「人間だよ。ばーか」って答える。
   馬鹿に馬鹿といわれると頭のいいやつは逆上するらしい・・・・・。
   だいたい、母が長い物差しで私たちを追っかけて終了するのだが、食べ物のことだけは喧嘩しないでとよく泣いた
   母には悪いが、一番の原因は食べ物が多い。
   
   私と兄は小さい頃から苺が好きで、お客様のおみやげで頂くと母がへたを切り牛乳と砂糖を入れて
   へこんだスプーンと共に出てくる。私と兄はお互いの足を引っ張りながら這うようにしていくつもある皿の苺の数
   や同じ数でも苺の大きさを一瞬のうちに見極める。だいたい、目星はいつも同じだ。
   それに到着するまで、足の引っ張り合いだから擦り傷やら蹴飛ばす鈍い音が常である。強いものがいいものを食す
   まさに命がけ!でも、そこからが汚いのが我が家の育ち。たどりついたものは(だいたい兄が先が多い)自分の物だと
   ぺっ!とツバをつける。汚い!と母が怒り。私も母の後ろで舌を出して馬鹿踊りをする。
   皆、幼い頃兄弟喧嘩はしたと思うが、こんなにくだらないものだったのだろうか?
   あまりにひどくて未だかつて人に聞けないでいる・・・・。
   
   よくお育ちがばれるわよ・・・なーんて意地悪ババアが言うように、育ちはお世辞にもいいとは言えない。
   お金持ちのお友達の家に行き、おやつという時間があって金のふちのお皿ににピカピカのフォークでエクレアが
   出てきた時、正直生まれて初めて食べ、ものすごく感動した。
   だいたい、うちにおやつの時間などない。お腹すいた〜とか言うと、ピンクの魚肉ソーセージをかじったり
   近くのお肉屋さんで揚げたてのコロッケを買ってその場でおばちゃんと話しながらほくほく食べた。

   しつけがきびしかったが貧乏だったので、物の取り合いはよくやった。
   普通末っ子は、「お兄ちゃんでしょ!」守られる存在だと思うのだが、我が家はおばあさまの時代。
   そして父は10人兄弟の長男。本家である。その長男は特別な存在で、いつも怒られるのは私だった。
   これは私が悪いのだが、欲望を抑えきれず、お客様のおみやげの10数個のショートケーキを
   上の苺だけ全部食べたことがある。
   裸足で追い出された。
   
   喧嘩してもテレビ番組も最後に言うとおりになるのは兄の方だった。
   その影響で野球もプロレスも好きになったが・・・・
   男子厨房に入らず。そのとおり今も兄は何でもできない。
   さすがにこの年でそんな喧嘩はしないし、ま、普通の兄妹関係だと思うが・・・・・。
   
   小学校低学年の授業参観の時に、将来の夢という作文を書いて読まされた。
   さされた私は、張り切って読む。作文は得意だ。
   「わたしは、大きくなって大人になったらおしごとをします。おかねをもらったらへやじゅうにはいりきらないほ
    どイチゴをかって、だれにもあげずにひとりでたべるのがゆめです」
   家に帰り、私の傑作はめちゃくちゃ叱られる材料となり、こんこんと説教をくらった。
   先生も他のお母さんもあんなに大爆笑だったのに、親とは悲しい生き物だ。
   本当のことを書いてはいけないときもある。
   
   卒業文集には将来の夢の職業は「ウエイトレス」となっている。
   しかもアホみたくしっかりウエイトレスの絵を描いて、吹き出しに「いらっしゃいませ〜」なんて書いてある。
   食い意地がよっぽどあったのか、穴があったら入りたい。大人になった自分が読んで悲しいのは
   (なんて小さな夢なんだーーー)と自分の将来を小さく小さく考えてたことだ。
   お前他にスチュワーデスとか歌手とか何かなかったのか!とドラえもんがいたら昔の自分に説教しに行くだろう。
   私の時代、タイムカプセルなどなくて助かった。
   ウエイトレスなどその後アルバイトでいやというほどやったもの。
   
   スイカも好きで、私はいつも下が真っ白になるまで食べた。
   それを見た母が「いいことだけど、それをよそ様の家でやってはだめ。」ととてもいいアドバイスをしてくれた。
   今もそれは気をつけるようにしている。
   しかしオレンジを出していただいた家でナイフを待たずに皮をむこうとしてむけないことは教えてくれなかった。
   あそこのみかんは皮がむけないって母に報告すると、安いみかんなんだよきっと。って言い親子で納得してた。
   
   今でも苺が好物な私は、時々昔を思い出すが、あこがれの1パック一人占めより、あの争って食べた苺の味の方が
   なぜかおいしかったような気がする。
   兄に対してだけ傲慢な私が、あの大人しかった借りてきた子猫ちゃんが・・・・大変貌をとげるのは
   思春期を過ぎ、中学入学のあたりからムクムクと今の性格を形成していった。
   抑えていた好奇心が行動で確かめずにはいられなくなったのだ。
   無口で心で考え、母にしか聞かなかった私が音楽に興味を持ち、外国にあこがれ、本来持っていたやんちゃぶりを
   発揮するには遅い親離れだった。
   兄は誰にも言われず勉強に熱中し、見事有名校に進んだ。
   アタシ?
   勉強なんてするわけないじゃん!!(笑)


 そういえば、私は褒められたことが無いと記述したが思い出した。
   一度だけ父に褒められたことがある。
   綺麗に食べたスイカを見て「お前は土を食っても生き延びる生命力がある」と褒められた。
   褒められた?・・・・・・・(笑)
   
   私も兄も小さい頃好き嫌いが多かったが、兄の食べれないものはすごかった。
   食べれるものを数えた方が早いくらい多く、特に牛乳やチーズなど乳製品は全くだめだった。
   そのせいかどうかわからないが、私の記憶にある小さい頃の兄は、いつも骨折していた(笑)
   しかも野球のボールが当ったとか、膝ぐらいの所から落ちたとか、そんなのばかりで
   トラックの屋根から頭から落ちたり、いちょうの木に登り下まで一気に落ちても
   何事も無い私と違い治っては骨折してた。

   けれどある時、私は縄跳びが得意でビニール製の安い縄跳びでなく、堅い木の取っ手の縄跳びで必死に2重とびの
   練習をしていた。家に帰る道々、鼻歌を歌いながらビュンビュン音を立てながらその縄跳びを回しながら歩いていた。
   おもしろくて回転をもっと早く、もーっと早くとその音がどんどん鋭いビュンビュンに変わるのを喜んで歩いていた。
   その時、少し手がゆるんだ瞬間、ブンブン回していたその取っ手の木の部分をおでこに思い切りぶつけ
   そのまま気が遠くなった。
   トラックの屋根からまっさかさまに落ちたときも、数分だと思うが失神した。
   今回も数分だと思うが目の前が真っ暗になり、そのまま道に倒れてしまった。

   悲しいのは、普通これがドラマだと誰かに発見され病院に運ばれるとか、介抱されるとか何かあるはずなのだが
   いつも誰にも発見されず、自然に目が覚める(笑)
   おでこがジーンと熱いが普通に歩けたので、そのまま家に帰った。
   帰ってからである。
   おでこがジンジンしたが、珍しく少女漫画を買ってくれていたので何度も何度も同じところを読んでいた。
   ふっとおでこを触ると、ぎょえぇぇぇぇ〜〜〜ッ!!!
   野球のボールぐらいにおでこが膨らんでいる。
   (鬼太郎の目玉おやじがいる・・・・・)
   いや・・・・私は三つ目の怪物か?
   このなぜか、奇妙な発想は親にも知られてはいけないと思い、漫画で顔を隠し、夕ご飯もいらないと
   隠し続けた。今でもその時のことは痛みから部屋の様子までしっかり覚えているから
   よほど恐ろしかったのだろう・・・・・それは・・・・・
   私は妖怪だ!!(あほな発想は真剣だった)→ただの馬鹿(爆笑)

   夜中も眠れず、朝になりこのまま隠し続けることはできないと決心した私は、母を、母だけを部屋に呼び
   事の成り行きを泣きながら話。この中に何かいるかもしれない!と号泣した・・・。

   この純真な少女の悩みは、母の豪快な笑いと共に氷枕でおでこを冷やせば引っ込むからと
   「こぶに決まってんだろ。馬鹿だね!この子は。あはは。」
   (ちなみに母は結婚前、幼稚園の教諭だった。子供に優しい母である。そう教育者の子供なのだ。)
   こぶ?こぶとは漫画だけの世界のことと思い込んでいた教育者の馬鹿娘は、やっと気づき安心したものの。
   冷やすのが遅く、今もおでこを触るとでこぼこしている・・・・。
   
   他にもペンキを塗ってもらった赤い自転車で坂道で、自転車ごと空中回転したり
   エスカレーターの上から真下まで転がり落ちたり
   色々やったが、骨は折らなかった。
   食い物争いによるがっつきさと毎日飲まされた牛乳で、虫歯も無い丈夫な歯と骨を持った。
   残念なことにものすごい骨太だ。
   指輪のサイズを(まあ、聞かれることも少ないが・・・)言うのが恥ずかしいほど骨が太い。
   
   兄は骨は弱いし歯も悪かったが、栄養は脳には回ったようである。
   脳の形成の重要な栄養源はカルシウムではないことが子供ながらに感じていた・・・・・。


 習い事

   うちの両親は教育者だが、私には一切勉強しろとかそういう言葉は言わなかった。
   兄にも言わなかったが、やつは不気味な子供で自分から勉強し、いい学校に入ると目標を決める気持ちの悪いやつだ。
   
   だが密かに母には私に何か期待していたらしい。
   「ピアノ」
   実は全然興味が無いのに3才から小学校4年生までやらされた。
   自慢じゃないが、私は絶対音感の絶対無い女。
   先生がピアノの音を鳴らすから、その音を当てろと言う。
   その先生は、若い姉ちゃんだったがヒステリックな先生で怖かった。わかりませんなどと言える様な雰囲気ではない。
   ♪ポ〜〜ン(ミ〜)♪  私「♪ファ〜♪」元気に答える。
   一体、何を聞いてるの!練習してきてって言ったでしょ!何度同じこと言わせるの!
   実に怖い姉ちゃんだった。
   だいたい、芸術関係は生まれつきの才能というものもあると思っている。
   それに好きではないし、練習して来いっつーてもうちにはピアノが無かった。
   約8年にわたり嫌々ながら通ったピアノは結局バイエルが終わらないまま母があきらめてくれた。

   「習字」
   これは父の指示により通わされた。
   13年間である。
   もともと字を書くことは嫌いではないので、これはスムーズに上達し字だけは人前でもみっともなくまともに
   書けるようになった。しかし、父はその上をいくから賞状書きまで筆でする。
   私にそこまでとは言わなくても、習字の先生でもできるようにと思っていたようである。
   おかげで思春期に皆が書いていた丸字という可愛い文字がどうしても書けなかった。
   高校のとき、休み届けを書く保護者の書く欄に記入する役目だった。
   人に役立つことができた唯一の習い事である。
   父が言うには、馬鹿でも字が綺麗だと頭が良く見える。
   馬鹿で字が汚いと救いようがないというようなわかりやすい理由を聞いて納得した。

   「そろばん」
   話が出ただけで、真剣にこれには拒み勘弁してもらった。冗談じゃない。数字はこの世の中で一番苦手だ。

   「絵」
   実は私は、これが一番習いたかった。唯一習いたいと思い自分から言い出したものだった。
   漫画を真似して描いたり、道に絵を描いたり、塗り絵などはみ出さずに綺麗に人より書けたし
   もっとうまくなりたい。いろんな絵を描きたいと真剣に思っていた。
   小さいながらも、自分が頭が良くて頭で働くより、手先で生きていく方が向いているし
   図工が一番好きな授業だった。
   母にはOKを貰ったが、父は習い事に関してすごくきびしい判断をする人なので
   父のOKが出ないと通うことはできなかった。

   一生懸命習いたい旨を話すと、父の逆鱗に触れた「だめだッッ!!絵は食えん!!」
   その時、私は小学校の低学年である。「絵は食えん?」(絵は食べ物じゃないよ・・・・・)うん???
   その「絵は食えん!」の言葉に口ポカンであった。
   父が言うには、絵はどんな画家でもだいたい死んでから値がつくものだ。絵描きになっても暮らせないと言う。
   別にゴッホになりたいわけではなかったのだが、あまりにこんこんと始まるので何の反論も言えなかった。

   幼い私がその時に何を思ってあきらめたか忘れたが、今考えると何も子供が絵が好きで習いたいという単純な思い
   なのに父は習い事=暮らしとなっていたようである。
   私が結婚できないでも習字の先生なら細々でも暮らせる、絵はだめだ。金にならん。という論理らしい。
   父の言うことは絶対なのであきらめるしかなかったが
   現代の子供たちの、様々な習い事の数々・・・・羨ましい限りである。
   ちなみに結婚できないかもと選択肢に入れた父はかなり失礼である。
   私は特に飛びぬけたブスでもデブでもない。嫌いなタイプに好かれるだけである。
   のちに結婚できないと心配したのではなく、未亡人になって子供と共に暮らすとき、女は手に職を持っているほうが
   安心だ・・・というはるか遠いところまで心配してくれた父の愛情だと知った。
   親とはそこまで想像して心配してくれるのか・・・・本当に有難いものだ。

   けれどその時の父はいくら言っても絶対なのであきらめも早かった。
   絵の教室を遠くから覗きながら、チェッと石を蹴り道に絵を描いてよく遊んだ。

   父が定年後、南画という中国の墨絵のようなものを習って、家中のふすまに絵を描いた。
   床の間の掛け軸の絵も全部父の絵だ。
   「絵は食えん・・・・。」小さくつぶやく。いやらしい子供だ(笑)

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                               わしゃホームへ行くぞぃ  その4に行くぜ〜